広瀬宰平(ひろせさいへい)は天保7年(1836)年九歳のとき、叔父に従って別子銅山登り、その二年後、住友家に奉公した。 28歳のとき、住友家の養子となり、慶応元年(1865)38歳で別子銅山支配人となった。別子銅山は幕府の支配であったが、幼少の頃から別子に住み、莫大な鉱脈の眠る宝の山であること熟知していた広瀬は、明治維新で銅山を国が接収しようとした時、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反すると訴えた。新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可された広瀬は、その後、別子銅山に鉄道を引くなどして近代化し、日本の産業発展に大きな足跡を残した。広瀬の生い立ちを通して新居浜の歴史が学べます
この美しい庭は、地方の庭園文化の発展を示す重要な事例として国の名勝に指定されています
離れ座敷
贅を尽くした平屋建て
離れから見える庭園
四季折々の風情が楽しめ実に見事です
日本を代表する武田清兵衛の作とあって
邸内全体が公園のようです
正門
この脇に門番所や人力車庫
正門に続く長い道
亀池
灌漑用のため池としても使用されました
敷地内にあるこの建物に歴史的資料が収められています
鉄道模型
広瀬宰平が作ったこの鉄道で別子銅山は飛躍的な発展を見せます
広瀬宰平は1865年38歳の頃 別子銅山支配人、50歳で住友家総代理人となり、大阪商船、住友製糸、新居浜精錬所を設立、明治24年(1891)64歳で別子銅山鉄道に着手して2年で竣工、民間人初の明治勲章を受賞
別子銅山が栄えた時代の 様子と、その頃の広瀬宰平の生活が感じ取れる貴重な資料の展示です
正門から邸宅に続く通路
正面に見えるのが母屋です 両脇にある門番小屋や事務所などが見えないようになっています
広瀬邸の建物配置図
座敷や茶室、台所など10程の部屋がつながっていて、周りを門番所、女中部屋、などが取り囲んでいます
邸宅の内部も見学出来ます。別子銅山鉄道跡地は遊歩道と自転車道になっています
広瀬宰平は別子銅山に鉄道を引き、大量の鉱石を運び出す近代化に成功し、住友グループの礎を築いた人です。住友財閥の基礎は新居浜だったんですね。別子銅山を支えた実業家の近代和風建築として平成15年5月に 邸宅は国の重要文化財に庭園は国の名勝に指定されています。
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